科学的トレーニングの危うさ|ニュースレターNO.115

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月に2回、だいたい2週間間隔のペースでニュースレターを書いているのですが、あっという間に次のニュースレターということになっています。自分のお尻を自分で叩くことになっていますが、みなさんに情報を提供すると同時に自分自身新たな考え方に出会うきっかけにもなっています。

本来あまり本を読まない人間でしたが、ニュースレターを書くようになってから気に掛かった書籍を求めては、目を通すようになりました。当然、すべて熟読するわけはありません。

読み始めて頭に残る、また引っかかる事があれば最後まで目を通すようにしています。本のタイトルと内容が一致していればよいのですが、当たり外れの多いことも事実です。ここ最近は、特にカラダの使い方に興味があり、そのようなことが書かれてありそうな本を物色しています。

今回のニュースレターは、前回紹介した『甲野善紀、田中聡著「身体から革命を起こす」新潮社2005』の中から科学的トレーニングをどのようにとらえればよいのかという示唆するところを紹介したいと思います。

スポーツパフォーマンスを向上させるために必要とされる科学的トレーニングですが、何が科学的トレーニングなのか、適切な理解がなされていない現状も多いと思いますので、科学的トレーニングの一つの考え方を示唆してくれていると思います。

『関節を支点とする骨格と筋肉とからなるテコとバネとうねりのメカニズムとしてとらえられた身体の運動性能を高めようとするなら、筋肉を増強したり、関節の可動域を広げたりするしかない。スペック的にはそういうことになる。それ以外の要素は、勘とか才能、最近だと「身体能力」と言われるようだが、あまり鍛錬できるものとは思われずにきたようだ。

この身体観のもとでは、人は、筋肉の緊張感を、能力発揮の「実感」として求めざるをえない。走るときに足で地面を蹴ろうとするのも、そのためである。そのような「実感」にとらわれていては、走りを変えることはできない。コロとしての「実感」に頼ってどんなに鍛錬しても、よりよいコロになれるだけなのだ。

「先日J1のあるチームに指導を依頼されて、そのクラブチームヘ行ったとき、走り抜けようとする私を止められるかどうか実演しました。私を止めようとしてくる相手をかわして先へ行くということをやったんです。

そこにはワールドカップに出場したという選手もいたというのですが、私には控えの選手とまったく区別がつきませんでした。誰がスター選手なのか私は知らないし、私の動きへの対応という点では、どの選手もほとんど同じで、違いがなかったからです。誰も、私を止められませんでした。そのとき、上達を目指していろいろ研究しているはずのプロのサッカー界もやはり科学的トレーニングに目かくしをされているなあと感じましたね」

プロのサッカー選手が何十人もいながら、甲野の動きへの対応に優劣の差がなかったのは、誰もそのような質の動きに対した経験がなく、素人同然だったということだ。身体のリアリティからほど遠い科学的トレーニングによって、選手らの感覚がコロのレベルに閉ざされていると、甲野には思われたのであろう。

「そのとき私が見せたのは、走って来た相手がガッと私の前に出て来たときに、私がある状況で手をふっと当てると、相手が私を飛ばそうとする力をそのまま貰って、私はもっと先に飛んで行く、というものでした。相手はほとんど私の重さを感じることがなく、ある人が“手乗り文鳥がとまったぐらいの重さ”と表現したので、最近ではこの技を“手乗り文鳥”と呼んでいます。

これは向かい風も利用できる三角帆装着のヨットの動きにたとえられるもので、相手の力を逆利用するのですが、いわば単純な帆掛舟を前提としている今のスポーツ科学では、このときに何が起きているかを証明することは、ほとんど不可能でしょう。

そのとき、私は力を抜くでもなく、入れるでもない、ごく微妙な状態で、釣り合いをとっています。その微妙な状態というのが、科学には受け入れられないものなんですね。

ちょうど、城の石垣を石工が組むことが、現在の法律では許可にならないのと同じです。

城の石垣は、微妙に力を分散するようにバランスがとれているので崩れません。阪神大震災のときも、現代工法の石垣は崩れましたが、古い石垣は崩れませんでした。

しかし、建設省には、その“微妙”ということが何だか分からない。それで、コンクリートで固めないと許可にならないわけです。

身体は、石垣どころではなく、あらゆる部分で微妙多様な動きが複雑にからみあっていて、おかれている状況によっても違ってきます。その要素は無限にあって、とても説明しきれるものではありませんよ。それを、おそろしく単純化した理論で説明して、それに基づいてトレーニングするなんて、絶対におかしいでしょう。

ちゃんと現実を観察していれば、どうしても暖昧になるんだから、科学になどしなければいいんです。スポーツの上達のためには、ウエイト・トレーニングをやって筋肉を鍛えてという非常につまらない状況にしてしまったのは、科学の罪ですよ。

たとえば、東京御茶ノ水の聖橋みたいなアーチ状の橋はあちこちにありますけれど、筋トレというのは、よほどうまくやらないと、素人考えで、このアーチの上部の薄い部分を補強すればもっと強くなるんじゃないかと、そこだけ補強するようなことをしている気がするんです。そこが薄くなっているのは、そのほうが全体の強度が保たれるからで、そこを下手にいじったら、力がガッと一箇所にかかるから、逆に弱くなるんですね。

だから、筋トレして筋肉を太く大きくすると、かえって肉離れとか不具合が起きてくることが多いわけです。人間の身体というのは、ただ太く大きくするよりも、全体としてうまくバランスを取っているほうがいい。金属の丸棒を曲がりにくくしようと思ったら、中を抜いたほうが丈夫です。

それは、力が全体に散るからですよ。変に一部分だけ余分にくっつけたりしたら、かえって悪い。まるで、ある種のガンみたいなものですよ。全体のバランスを考えずに、そこだけ肉がついたりするわけだから。

それから、ウエイト・トレーニングというのは、鍛えたい筋肉に負荷をかけて、“重い、重い”と思いながら、ゆっくりやって、その筋肉を太らせるわけです。

それは、下手な身体の使い方ですね。

仕事で上手く出来るには、重さを重さと感じないようにしなくてはなりません。重いものを軽く扱えるようでなくては、日々の仕事としては成立しませんよ。

重さを“重い、重い”と感じるのは下手な身体の使い方なのに、その下手な身体の使い方で身体を作っておいて、それでそれぞれのスポーツの技術が上手になるようにしようなんていうのは、中学生でも論理的矛盾に気がつくようなことでしょう。

最近はウエイト・トレーニングもやり方にいろいろと工夫が見られるようで、いま言った方式とは違うものも出てきているようですが、仕事などで重いものを楽に扱おうとするのと具体的目的も見えないまま体力や能力を伸ばすために負荷をかけるというのとでは根本的に身体の納得度が違うように思われてならないのです」』

『科学的な合理性で考えられたトレーニング法は、身体にとっての合理性とは一致しない。生きて、はたらく身体にとっての合理的な動きは、はたらくなかで見出されるものであり、それは感覚として獲得される。その感覚で動けるようになることを、甲野は「身体の装置化」と呼んでいる。

「・・・ 今日、しばしば身体感覚を大切にしようということが言われるようになりましたが、そう言われている際の身体感覚というのは、どうも“汗と涙の結晶……”と言われるようなナマ身を感じさせるような気がします。私が言いたい、古人の精妙な身体感覚とは、装置化された身体の感覚のことです。なにかをやろうとする筋肉が動く感じではなく、自動的にさまざまなランプが明滅して、精密な機械が作動を始めるような感じです。

運動して躍動感を味わうとか、汗をかいて気持ちがいいとかいうようなことは、子供のうちの体験としては大切ですが、これを身体感覚などとことさらにいうには幼稚すぎるでしょう。もちろん、なれないことをいろいろとやってみるのはいいのですが、そこから、ほんとうに身体を使いこなせるようになるというところに、感覚の追求があると思うんです」

・・・

甲野の場合は、大きな相手を持ち上げたりするときも、その行為をするという直接的な実感はなく、身体を操縦するような感覚で使うという。実際、そういうときに筋肉が緊張して固くなっていたり、息をつめていたりすることはない。

・・・

地面を蹴らないように走るというのも、筋力で身体を運ぶような「実感」は持たないということであり、まさに身体を操縦するような感覚で前進していくということだろう。

このような「装置化」にいたる感覚を養うものは、重いものを重いと感じてはいられないような日々の仕事であり、甲野は、スポーツでもそのような仕事としての感覚で鍛えていくべきだという。

「昔から行われていた仕事感覚でやったほうが、ずっと本質的な身体づくりができると思います。初代の横綱若乃花が、石炭を天秤棒で担いで、揺れる板の上をバランスを取りながら運んでいたとか、あるいは西鉄で年間70試合ぐらい投げて四十何勝三十何敗した稲尾投手なんか、なか四日とか、そんな休みはないですよ。

全試合の半分は投げているんですから。あの人は、子供の頃、ろを漕いだりして、仕事で身体を作っていたそうです。最近、そういう仕事で作った身体とそうでない身体との違いがはっきり出たのは大相撲の横綱朝青龍ですね。モンゴルで育って、子供の頃から重い石を運んだり、家の手伝いで仕事をしている。六歳ぐらいで二十キロぐらいの石と格闘していたという話を読んだことがあります。

そういう仕事のときは、少しでも身体に負担がないようにやろうとするじゃないですか。そうやって作った身体だから、多機能でしょう。持ちやすいバーベルとかじゃないんですから。ウエイト・トレーニングで作った身体とは、全然ちがうんですよ。石を動かすことが目的なのと、身体を作るためにという頭で目的をつくってそのために身体を使うのではどうも根本的なところで何かが違うのでしょう。

たとえ同じバーベルを持っても、それをいかに全身を使って軽く持つかということを工夫すれば、これは今言った仕事感覚ですから、できてくる身体は違うと思うんです。それに比べたら、負荷をうんとかけて、ゆっくりやって筋肉を早く太らせましょうというのは、促成栽培の野菜みたいなものじゃないですかね。

何か“科学的”という頭で考えたことが高級なことのような憧れがぬけきっていないような気がしますね。もちろん、単なる習うより慣れろ的なやり方も問題なのですけれど」』

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