野口体操について|ニュースレターNO.125

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野口体操というものをご存知でしょうか? 野口三千三氏が考案された体操です。私はかなり昔から耳にしてはいたのですが、また何かの雑誌で見たりはしたのですが、実際にどのようなものであるのか、その原理、考え方もわからずじまいでした。ところが最近身体調整なることを考えていたときに、ふと野口体操を思い出し、関係書籍を集めてみました。

しかし、どれもよくわかりませんでした。その中に「野口体操入門」(岩波書店2003)という本があり、それを読むとなんなくわかってきました。重力に逆らわない、思いっきり重力を受ける・重力に身を預けるということのようでした。そのためには、力を抜き、リラックスすることが必要になります。

さらに「原初生命体としての人間-野口体操の理論」(岩波書店1996)を読むと、私がいつも指導するときに使っている話や考え方がそのまま出てきました。まさにビックリです。いかに楽をするか、楽をする・リラックスしている状態がもっとも大きな力を発揮できると書いてあります。

「頑張る」ということは、目を見張って敵がどこから攻めてくるか警戒する状態であるといいます。「頑張れ」ではなく、「したたかになれ」が大切であるそうです。

「したたか」とは、からだの下の足の裏と地球との関係などの感覚が、手で直接物に触れて実感を持ってそうだといえるような、澄み切って落ち着いて自分を信じてことにあたっている状態をいうそうです。そこから生まれる動きは、まさにその人にとっての自然な動きになります。そこに弾む感覚・リズムがあります。このことも私が指導のポイントにしていることです。

また、筋肉は活動の主動器官ではなく、感覚器として働かせなさいといいます。そしてパフォーマンスを発揮するには、リラックスが最も重要な概念であることから、次のように述べています。

1. 最大量の力を出し、最高速度や持久力を求めるためには、それぞれの瞬間には、全身の筋肉のうち、尐なくとも半数の筋肉を完全に休ませていなければならない。

2. 仕事それ自体の中に、遊びそれ自体の中に、眠りそれ自体の中に休むということがなければ、仕事も遊びも眠りも成立しない。

「原初生命体としての人間」の著書は、野口理論について書かれたものです。読み進めて思ったことは、以前紹介したベルンシュタインの『巧みさ』の本を読んでいる感じがしたことと、重力と合体することやからだをゆるめるところでは高岡英夫氏の本を読んでいる気がしました。

全体的には、「重力」と「ゆるめる」ところからまさに高岡氏の「正中線」と「ゆる」と同じ理論のように思われたのですが、最大の違いはからだの一つ一つの組織に意識を持たせないということです。高岡氏の「身体意識」に対して、野口氏は「意識」も「無意識」も意識することに代わりはなく、漠然と感じる・イメージすることが大切であり、その場面・状況に応じて自然発生的に動作が行なわれるようになることであるということです。

そのためには、「適当な状態」がよいということです。この「適当」ということが最適であり、私も指導の中で「適当に、いいかげんな感覚で」と、よく言うことと通じていました。実際にどのようなことをするのかということは、細かく紹介されたものはありませんが、いろいろ読みますと想像がついてきます。私も尐しずつ始めました。

あまりわかりやすいものはなかったのですが、御勧めできるものが見つかりました。「アーカイブス野口体操 野口三千三+養老猛司」(春秋社2004)で、1991年に開催された講座の内容をDVDと書籍の組み合わせになっています。このDVDの中に、尐し実演が出ますので参考になると思います。
また、話の内容も面白いものです。書籍のほうには、講座の内容を書き起こしたものと、野口氏の経歴なども紹介されています。ぜひご覧ください。

今回は、指導者にとってものの考え方の参考になるところを、「原初生命体としての人間」からピックア
ップしました。

『・・・ 「電子計算機の父といわれたノイマンの計算によれば、人間が1秒間に受けとる情報量は、1400億ビット(ビットは情報量の単位で、1区別のこと)ぐらいだといわれている。現在の大型電子計算機の記憶容量は100万ビット(この数は多くなってゆく)であるから、その14万倍という巨大な量である。それがとにかくなんらかの形でからだの中に記録されるわけである」

1秒間に1400億ビットの情報が、いちいち意識にのぼるはずがないことは、日常の体験からきわめて明らかなことである。すると意識されるものは、受けとり記録された意識の中のきわめてわずかな小部分であることがわかる。記録されながらも意識にのぼらなかった巨大な数の情報が、われわれにとって何の影響もあたえないということは考えにくいことであろう。このことのもつ意味はきわめて興味深い。

「骨格筋(横紋筋)は随意で内臓筋(平滑筋)は不随意である」「無条件反射は無意識で条件反射は意識的である」「反射は無意識で、これに対して随意運動がある」というようなことは、誰でもどこかで聞かされたり読まされていることがらであろう。

ほんとうにこんな考え方でいいものなのであろうか。

私は自分のからだの動きで検討してみて、何といいかげんな便宜的・形式的な考え方であろうかと腹立たしくなる。「意識」「意志」とは何かの追求が不充分であること、あまりにもはっきり別物としてまとめたがること、ここに無理があるように思う。

私にとって、意識によってひとつひとつの筋肉を働かせるという感覚は、いまだにはっきりつかめていない。しかし、それでは駄目だ、とは思っていない。ひとつひとつの筋肉を意識的に動かせることが、人間にとって大切なことだと思っていないからである。その動きにとって適切なイメージによって動くのである。

ひとつひとつの筋肉を動かそうとするのではなく、からだの中身の関係において動くのである。今までの分析的な生理・解剖・心理などの知識で動くのではなく、豊かな新鮮な明確なイメージによって動くのである。これは、あくまでも実際に動いてみての実感からなのである。この実感のなかから、生きている人間の動きにとって、次のようなことを主張したくなるのである。

「抽象概念としての意識は現実には存在しない。イメージと呼んでいるものこそ、意識の実体ではないのか。」

「人間はもともと、意識によってひとつひとつの筋肉を動かせるようにはできていない。イメージによるしか動きようのないのが人間ではないのか。」

動きにおける諸要素は分析すれば分析できるとしても、実際にはきわめてわずかの意識されている動きと、それにともなった数多くの総合である。もし、すべての要素としての動きを意識し、意識によって指令しなければならないのだとすればどういうことになるであろうか。

あまりにも煩雑で収拾がつかなくなるだけでなく、疲労困慰して生きていることが不可能になってしまうであろう。意識と呼ぶ働きは、そのように粗雑に使うべきものではないはずだと思うのである。

動きのイメージは、このような分析的なものではなく、動的で、ある方向感をもつ流れであり、総合的な直感によって創造された生きものであるから、ことばにしてみると「○○のような感じ」としかいいようのないことが多い。

そして、「○○のような感じ」とことばにしてみた時、「○○」ということばの既成観念にとらわれて固着し、止まってしまったとき、もうそれは自分の内側に感じているものとは別物となってしまい、イメージとは呼べない命のない空疎なものとなってしまうのである。私におけるイメージを定義してみると次のようなことになる。

「イメージとは内的で流動的な現象であって、ある対象について、意識にのぼったものとしてとらえられたものだけでなく、半意識・無意識のものとして感じとられている多くのもの、漠然とした感じにさえならないもっともっと多くの何か、そのすべてを含み、それらの全体から生まれてくる象徴的・模型的(模式的)そして未来像的な全体像をいう」

イメージにとっては、今ことばにすることのできたものだけでなく、その背後の根源にひそんでいるもの、周辺に含まれているもの、これから後で生まれてくるもの……そのような「今はことばにならない非常に多くの何か」が大切なのである。このようなことから、次のことばが浮かび上がってくる。

意識の存在を忘れよ。そのとき意識は最高の働きをするであろう。

筋肉の存在を忘れよ。そのとき筋肉は最高の働きをするであろう。

脳細胞140億のすべてを休ませよ。そのとき脳は最高の働きをするであろう。

動きは意識の指令によって起こるのではなく、イメージによって生まれるものである。

したがって、意識的にやるとうまくいかない、ということは当然のことで「人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ」ということであり、「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。

「筋肉は理論的思考によって運動の方向性をあたえることはできるが、内臓はそれほどはっきりと言語系の支配を受けない。心臓を早くする、というような言語系では、簡単に心臓は影響を受けないが、心臓が早くなったときの恐怖感・不安感を想起すれば、心臓を早くすることはむずかしくはない」というが、この恐怖・不安感の想起ということを、常識的には心の問題として考える。

しかし恐怖・不安感の実体はそのような観念的なものではなく、からだの中身の変化の事実であり感覚であって、一過性のアンバランス、すなわち急激に生じた差異、恒常性(ホメオスタシス)の一過性破綻である。具体的にはからだの中に、不規則不明確なある種の低密度・低圧の空隙が生じ、その周辺が高密度・高圧となることによる感覚であることが多い。

したがって、はげしい差異を新しく内包したその状態は、アンバランスを回復しようとするエネルギーが生じ、新しい変化(運動)を起こそうとするはげしい傾斜をもっている。そんな実感なのである。そのような感覚が明瞭にとらえられるようになっていれば、簡単にコントロールできるのである。

そのためにはつねに具体的なからだの中身の変化の実感を検討することによって、それを鋭敏に発達させておくことが大切だということになる。

随意筋と呼ばれる筋肉が主として働く普通の運動においても、筋肉に力を入れるという意識的努力よりも、ある部分の内圧が超高圧、ある部分の内圧が真空というような感じで、はげしいスピードのある動きを生み出したり、温度差や高度差など、解剖・生理学と矛盾するような感覚を中心とするものであっても、自分が納得できる実感がともなっているイメージによるほうが、きわめて有効であることが多い。

意識的な緊張努力によって、何かが成功することがある。これは意識の世界でのことであるために、鮮明に記憶される。このようなことが集積されて、すべての「こと」が意識的努力によって行なわれ、意識的努力をすればするほどそれがよくできるのだと錯覚されることが多いのである。』

『からだの重さ;

1.地球上でのからだの動きの原動力は、からだの重さが筋肉の収縮力よりも、より基礎的で重要なものである。重さは意識しようがしまいが、望もうが望むまいが、たえず地球の中心の方向へ働きつづけている。重さがあってはじめて動きが成り立つのである。

2.筋肉の収縮の絶対力が大きいほど可能性の広いことは論ずるまでもない。しかし、筋肉の役割は動きのきっかけをつくることと、動きが始まってからの微調整をすることであって、主動力ではないと考えた方がよいことが多い。量的に筋肉が主動力のように見える場合もあるが、筋力+重力ではなくて「重力+筋力」が基本である。

このことは筋肉の役割を軽視するものではない。筋力を主動力として使わないことによって、人間の動きにとって重要なきっかけや微調整のために専念できるからである。

3.動きにおいてからだの重さを繊細・微妙・正確に感ずることができなかったり、動きにとって重荷として感じられたりする間は、よい動きはできない。一般に自分自身の動きを重いと感ずる動きは、それが自分の外に働きかける力としては意外に弱く、自分自身の動きを軽く感ずる動きは、それが外に働きかける力としては強いことが多い。

4.「自分のからだの重さを感ずる感覚受容器」は、筋紡錘・腱紡錘その他未知のものをふくめて数多くのものの綜合と考えられるが、重さの感覚は筋肉の緊張感・抵抗感がその中心となる。動き方によって何十キロのからだをほとんど全然抵抗として感じないで動くことが可能である。このような動きの感じを合理的な動きの基礎感覚とすべきだと考えている。

5.重さの方向(地球の中心)を正しく感ずることは空間感覚の基礎であり、動きの時間的経過の中での重さの変化を感ずる能力は時間感覚の基礎である。動きのリズムは、重さとそのはずみに対する感覚を中心にとらえるべきものである。

6.筋肉の力が強いから身が軽いと考えることも間違いではないが、筋肉をほとんど使う必要がないように動いたときにはさらに身軽に感ずるといえる。事実として多くの筋肉が高度に緊張しなければならないような動きでも、調和的合理的に働いたときには、圧迫感・拘束感としてではなく、ひとつの充実感とその後の解放感として感じられる。

7.はずみ(弾み.反動・惰性)はリズムやタイミングの問題として考えられることである。重さから生まれる力に対し、さらに筋肉によってタイミングよく加力・加速されて生まれるはずみは、静的に一回的に働いた場合の筋力などでは到底考えられないほど強大なエネルギーを生み出すことができる。はずみは動的な力の創造の原理ともいえる。』

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