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「力を抜く」ということ|ニュースレターNO.131

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10月の末から11月の頭にかけて北海道(月形)に女子野球の指導に行ってきました。その後、旭川まで行って学生募集もしてきました。お蔭様で旭川から意欲のある学生が夢を実現するために平成スポーツトレーナー専門学校にやってきてくれることになりました。

今から楽しみです。現在、私の悩みというか学校の悩みは、スポーツトレーナーの現場としての受け入れがあるのですが、そこに送れる学生の数が足りないことです。

平成スポーツトレーナー専門学校は、日本で一番お金のかからない、それでいて最高のテクニックを習得できる学校です。インターンシップや実習にもお金は掛かりません。交通費などはすべて出ます。まさに実践で鍛える学校です。受け入れ先は増えるのですが、肝心な学生が足りません。私の学校を理解していただける方がどんどん増えており、受け入れたい希望が絶えない状況です。

大変光栄なことですが、使えるレベルまで教育できていなければ出せないので、このような状況になってしまっています。

来年は、意欲ある学生がたくさん入学してくれる予定ですので、これから先が楽しみでしかありません。

さて、北海道を回っている間に、5~6冊本を読んだのですが、家に帰って操体法の橋本敬三氏のDVDを見たら、なぜか急に野口三千三氏の本を読みたくなりました。夏にざっと目を通したのですが、「野口体操 からだに貞く」(春秋社2002)という本が目にとまりました。この本は、確か「重み・重力」を感じ取ることが書かれていたように思います。

最近の私の興味は、「重力」「リラックス」「呼吸」にあります。どれだけ頑張らないかということ、どれだけ「いいかげん」にやるか、ということが最高のスピードをもたらし、最高の効率で、最高のパフォーマンスを引き出すことができると思うようになったからです。重いものをいかに軽く扱うかといったことも同様です。

重力をどのようにして扱うか、という課題を持っていろいろトライしています。今のところ、重力と戯れることによって筋の緊張をとることが簡単にできるようになりましたし、わずかな力と反動で大きな力とスピードも出すことができるようになりました。それによる成果は、疲れないということに尽きます。

今回は、読み直した上記の著書から力を抜いて自分の感性に任せる必要性について書かれたところを紹介したいと思います。指導者にとってもアスリートにとっても参考になるところが多いと思います。

『一般には「頑張って」「歯を食いしばって」「満身の力を込めて」というようなコトバによって示されるように、強い意志をもって緊張・努力の量をできるだけ多くし、それを続ければ、どんなことでもできないことはない。このような考え方、やり方が疑うことなく信じられているようだ。

このような、力の量によって物事が解決できるのだ、という考え方がどんなに恐ろしい危険なものであるかということを、深く考えてみたことがあるであろうか。

からだの動きにおいて、意識・筋肉主体の頑張り・最大量緊張主義のやり方は、人間の傲慢さからくるもので、それは当然の結果として、物量・生産量を最高とする経済思想や、支配・被支配の権力主義の構造につながってくる。からだにしみこんだ無意識のこの傾向は、その人の思想.行動と別物ではないことを思い知らなければならない。無意識であるだけに最も恐れなければならないことだ。

もともと「頑張って!!」ということで解決できる問題には限界があるもので、「頑張ればできる」ということの裏返しは、「頑張らなければできない」ということになる。

頑張ってやるということは、自然の原理のままに従えばできないことを、無理矢理にデッチアゲて、ゴリオシするということでもある。デッチアゲの能力やゴマカシ・ゴリオシの能力を量的に増すことが、人間のからだの力の基礎であるというこの考え方は、明らかに間違いだと私は思う。

現在行なわれている「基礎体力」とか「体力づくり」とかいうことの内容が、このような考え方のものであることに疑問を感ずべき筈なのだが……。

自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる。

なぜそんなに無理をして、腹筋の収縮緊張の力だけを高める必要があるのだろうか。そのことで中年腹が尐し引き締まったとしても、練習を休んだらまたもとに戻ってしまうだけだ。無理を押し通すためには、強い意志力と肉体的努力、そして大きな疲労過労老化……長い一生にとって大きな負担となり、到底続けられるものではない。

若者の一時の自虐的楽しみや、精神の傲慢を許し、肉体の奴隷視に特有の快感を覚える人の楽しみにするのならば、それは趣味の問題だから、「どうぞご自由に」……ということになる。

ある運動の効果を、そして目的を、なぜやる前からはっきり決めてしまわなければならないのであろうか。やらないうちに目的や効果が分かるはずはない。どんな人がどんなやり方をするかによって、結果としていろいろな変化が現われてくるので、その変化が果たしてその人にとって効果と呼べるものであるかどうかは、その時、その人が検討してみなければ何とも言えないものであろう。

こんな効果があると誰かが言うから、そのような効果をあげることを目的に決めてしまってやる、ということの馬鹿らしさを知るべきだと思う。

目的を決めてやるということは、理性的・論理的なことのように思える。しかし、何かを目的に決めてしまうということは、それ以外のどんなことが起こるかもしれない「新しい発見の可能性」を自ら捨て去ることになる。やれば必ずいい結果が出るとは決まらないし、予想もしないたいへん重大な意味をもつ、貴重なことが発見されるかもしれないのだ。

狭い固定的な「筋肉の収縮力の量を増すこと」だけに、自らの行動を、自ら枠をつくって、自ら閉じ込める必要がどこにあるのだろうか。これを私は自閉症と呼ぶ。』

『「いい」ということの基準を、私は「気持がいい」ということに置いている。気持がいいというあり方は、楽で楽しく、懐しく安らかで、温かく潤いがあり、母親の中の好(良・善)い所だけが渾然としてとけ合ってできた「美」の世界でもある。

「自分にとっての強さとは何か」を求める唯一の指針は、自分がそれをした後味が、自分にとって気持がいいものであるかどうかということである。これを忘れた時、感覚は歪み、デッチアゲ・ゴマカシ・ゴリオシの能力を強さと誤認してしまう。

あえてくどく言うならば、自分にとって強さとは何かを探検してみると、自分が新しく発見した強さというものが、今までの自分が強さだと思っていたことと全く異(ちが)うものであったり、他の人のそれと全く異うことがあるということを、予め覚悟していることだ。

自分の中に新しく生まれてくる感じは、やってみたその時に出てくるもので、そのつど微妙に変わっていき、固定した、これが最後の結論だというようなものはないというのが、感じというものの、もともとの姿ではなかろうか。

「快感に任せると人間は堕落する」という考え方の人が多い。強い意志・理性・知性の力によって自分に命令し、管理・監督していないと人間は駄目になってしまうものだと決めているようである。この考え方は、精神の傲慢さを許し、意識を専制君主として、からだを奴隷とすることを何とも思わないという、許すことのできない考え方だと思う。

そんなに人間という自然は、からだという自然は、信じて任せることのできないものなのであろうか。なぜ快感に任せてはいけないのであろうか。それほどまでに自分のからだの感覚を信じられなくなってしまったのは、なぜであろうか。

私は、からだの感ずる快感は神の声であって、それを歪ませないで素直に貞きとることができれば、必ず生きることの道を示してくれる最も信頼できるものだと信じている。自然の神はあらゆる生きものに対し、生きてゆく上での最高のよりどころとして、快・不快を感ずる能力を与えてくれたのではなかろうか。

他人の評価やメジャーによる評価にギリギリに束縛されて生きる生き方は、今すぐ止めたらどうかと思う。自分の生身の感じを大事に育てることは「おへそのまたたき」のような簡単な動き一つだけでも充分にできるのだ。いくつもの動きを、何十分もウンウン言ってやらなければならないというものではない。どんな小さな運動、どんな軽い易しいと思われる運動でも、まるごと全体のからだで動くのだ。

なぜ、多くの数の運動、烈しく難しいと思われる運動をやらなければならないと思うのであろうか。「現在の自分の限界を越えて極限にいどまなければ効果がない」というような意見を出す単純すぎる愚かな研究者を、なぜ権威者として絶対視しなければならないのだろうか。たった一つの運動だけでよいのだ、長い時間をかけて徹底的によく味わうことだ、必ず豊かで多様な深い真理を感じとることであろう。』

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