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「教える」と「教わる」|ニュースレターNO.132

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前回のニュースレターでは、野口体操の「重さに任せる」という考えを紹介しました。重さ・重力をいかにうまく生かすかによって、からだのバランスを整え、柔軟性を高め、パフォーマンスを高めることにもつながることがわかりました。野口体操といっても実際にどのようなことをするのか、書籍ではほとんど理解することはできません。

それが野口体操の動きを收めたビデオとDVDができました。野口体操・ビデオ製作委員会の企画・製作・発行になっています。全3巻よりなっています。興味のある方は問い合わせてみてください(寺島康子:Tel080-1068-4058、Fax042-948-3053)。このDVDをみてトレーニングに関してさらに視野が広がりました。ぜひ一度ごらんいただいたらと思います。

さて、今回は少し前に読んだ本の中から、指導のあり方、すなわち「教える」と「教わる」ということについて考えさせられるところを見つけましたので、それを紹介したいと思います。

選手にかかわらず人に教えるということは、自分がやるよりも難しいことで、指導者として指導テクニックを持っている必要性は、誰しも理解できていることですが、教えているのになかなかできないと悩んでいる指導者のほうが実際には多いはずです。

職人の世界では、見習いに入って師匠の世話をしながら師匠の一挙手一投足を見逃さず、自分のものにしていくというのが、通常の教えでもありました。見て感じ取り、自分の中で咀嚼して自分の形で表現していくことが求められたのですが、現代では師匠の背を見て覚えるのではなく、直接指導を請うという形になっています。そのために、教える側の感覚がなかなか教えられるものに伝わらないようです。

平成スポーツトレーナー専門学校でもそうですが、教科書・本に書かれていることをそのまま学生に教えないこと、実践教育の中から本質を悟ることが大切です。そのものの本質や基本と成ることを教えなければいけないのです。その基本的な考え方や本質を理解することによって、応用として現場の指導ができるようになる必要があります。

ストレッチ・ストレッチングにしてもウエイトトレーニングにしてもそうです。ほとんどが本からのコピーのように教えてしまっています。そのような指導・教育では、まったく応用が利きません。ロボット化した指導者が多くなっているように思います。

結局、物事の本質を見抜くことは一番難しいわけですが、文献や授業・講演などから情報を得て、その中から何がポイントなのか、何にどのように応用・活用できるのかという想像力が働かなければなりません。それができる指導者が求められるのです。通常の学校では、ほとんどが教科書的な教育しかされていません。

非常に困ったことに、そのような教育を受けただけで卒業すると一人前だと誤解するのです。物事の本質を探り、理解する努力を常に怠らないようにしたいものです。そして、応用の利く想像力・感性を高めなければならないのです。

そうしたことから、今回紹介する著書の一節は指導者としての心構え・指導の考え方を見直すために参考になると思います。その著書は、甲野善紀著『「古の武術」に学ぶ』PHP2005です。指導者から選手に何を伝えるかということですが、そこに「感覚・実践」というキーワードが含まれているように思います。

『カナダの極北地方に住むカショーゴティネと呼ばれる先住民族には、「教える、教わる、学ぶ、習う」という概念がまったくないと言います。

「教える」という文化がまったくなくて、みんな「自分で覚えた」と言うそうです。文化人類学者の原ひろ子先生が1960年代の初めにそこで調査したところによると彼らは体験したことの感想は言いあっており、それが結果として学びになってはいるようですが、互いには「教える」「教わる」という意識はなさそうだ、ということです。

そして、とにかく恐ろしいほど見取り能力が高くなっていて、原先生がテーブルメーキングをして、翌日そこにいる女の人がそれを真似してやったときも、写真に撮っておいたのではないかと思うくらい正確に覚えていたそうです。

そのように、見取って学ぶのが当然で「さあ、教えてあげましょう」というような押し付ける教育は一切ないのです。

そこでは大きな舟型のかんじきを履くのですが、原先生が雪が降ってからでは不安だから、どうやって履くのか、今教えてもらって練習しておこうとかんじきを土の上にもち出し「かんじきのひもの結び方、歩き方を覚えたい」と話しかけたら、その「練習」という概念がないところですから、「雪もないのにかんじきなど」と、みんなが腹を抱えて笑ったそうです。

ジョークだと思ったのです。この地に住む人たちにとって、「練習」などというものはなく、常に実地なのです。ですから、ものすごく覚えがいい。「よく練習しておきましょう」などという考えが、そもそもここでは理解されないのだということが、よくわかります。

そういうところに白人の教師が行って何かを教えたりしても、できるまでは絶対に教わりに来ないといいます。「教えて」とは言わず、できてから見せに来る。できるまでは自分ですべて考えて工夫するのです。

子どもは言葉を「教わる」のではなく、自然に覚えるものです。「そのなかにいれば自然にそうなる」というふうにしておくと、教えようとするよりも、ずっと吸収力が高くなるのです。オーストラリアの先住民のアボリジニは、二、三日も一緒に車に乗っていると、見ていただけである程度、車の運転ができるようになったといいます。見取り能力が素晴らしく高いのです。

昔の日本の職人も、そういうところがあって、目の端でチラッと見ただけで、「そうか、ああやっているのか」と、一発で覚えたものでした。「教えない」という世界にしておけば、吸収力が非常によくなるわけです。ちょっとした一言や、何気ないしぐさを見て、わかってしまう。今のようにカリキュラム式で教えようとすると、吸収力が低下して応用力までなくなってしまいます。

例えば物をつくっていくときには、現実にはさまざまな失敗の仕方を含めいろいろな可能性がそれこそ無数にあります。ところがいまは、「三つのうち、一つは正解があるんだ」という前提で選ぶような方式に、どんどんなってきています。これでは、とても応用力や新たな発想は生まれないでしょう。

用意された正解のあるところで教えるということは、学ぶ者の可能性の芽を摘んでしまうような弊害の多いことに思われてなりません。むろん武術も同じです。

では、教えるのではないとしたら、武術における師匠の存在には、どんな意味があるのでしょうか。私は、「現にそういうことができる人がいるんだ」ということを感じさせることが、最大の意味だと理解しています。絵空事でなく、現実にこういう感触で、どういう雰囲気でと、実感させること。

そして、「こういうことは本当にあるんだ」「本当にできる人がいるんだ」ということを、目の当たりにさせることが、一番意味のあることだと思っています。

ですから師匠は、単なる反復稽古で身につく以上のことができるようになっていなければいけません。一般に広く並日及させることにばかり意味を見出していると、どうしても指導者を多くすることに関心がいってしまい、こういう技芸の根本があいまいになってしまうので、そうしたことに関わる方々にはよくよく考えて頂きたいと思います。』

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