動きの革命|ニュースレターNO.150

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2006年、夏の甲子園決勝戦は、延長15回引き分けで、再試合となりました。夏の大会3連覇を狙う駒大苫小牧と夏の大会初優勝を狙う早稲田実業の決勝戦は、田中投手と斎藤投手の緊迫した投手戦となり、1対1で再試合となりました。両校とも打撃のチームでありながら、両投手にそれぞれ1点しか取れませんでした。

8回を終わって、1対1、その後15回までは、本当に見ごたえのある投手戦というか、両チームの集中力に満ちたイニングの連続であったと思います。両投手ともに冷静で、ピンチを迎えても抑えきる雰囲気が球場を包み込んでいました。

観客も一球ごとに歓声を上げ、また次の一球に集中して静まり返る、正にスタンドとフィールドが一体になりました。15回が終わり、引き分けになったとき、両チームが負けないでホッとしたというか、いいプレイが見られた感激すらうけました。試合終了時には、観客は立ち上がり、スタンディングオベーションで、両チームの健闘をたたえていました。というより、素晴らしいプレイを見せてくれてありがとうと言っているようでした。

翌日の再試合も、見ごたえのある試合でした。一球ずつ、眼が離せないイニングが続きました。正に、二人の投手のためのゲームのようです。試合は、早稲田実業が先に点をとり、それを駒大苫小牧が追いかける展開となり、クライマックスも、9回表、駒大苫小牧が2ランホームランで1点差、2アウトで田中投手を迎える。なんともいえない演出になりました。

結果は、三振で、4対3で早稲田実業が夏の大会初優勝を飾りましたが、どちらが勝った・負けたというより、素晴らしい24イニングのゲームを見せてもらったという感謝の思いを誰もが持ったと思います。歴史に残る好ゲームでした。

さて、今回のニュースレターで紹介するのは、Vol.110「ナンバの効用」で紹介した小森君美氏の2冊目の著書「動き革命-最大能力を引き出す整体動作」(スキージャーナル 2006)からです。「選手の指導において、指導者はどのようにあるべきか」という尐し哲学的なことが書かれています。自分の環境に当てはめて読んでみると参考になるところが多いと思います。

『世の中の事象には、一つのことについて、必ずいくつかの展開があります。たとえば競技会とか勝負事を考えてみれば、「勝負」がある以上、必ず「勝ち」と「負け」、あるいはルールによっては「引き分け」といった結果があります。

これを事象が展開していく上での「必然」と考えることができます。古代中国には「勝敗は兵家の常」という言葉がありましたが、これなど「戦いがあれば、必ずどちらかが勝ち、どちらかが負ける」ということを言ったもので、「必然」を語った言葉です。

一方、これらの展開した結果のうち、自分がどの結果を手に入れるかは、自分の行動によって決めることができます。「引き分け」がないルールでは、自分が「勝ち」を取れば、相手は必然的に「負け」になってしまいますし、自分が「負け」を取れば、相手は「勝ち」という具合に、自動的に決まってしまいます。

この考え方は運命論のような感じを受ける人がいるかもしれませんが、運命論のように、すべてはあらかじめ決められていて、シナリオ通りにしか展開しないなどという消極的なものではありません。事象がさまざまに展開していく中で、自分がどれを取るかによって、すべてが決まっていくからです。

つまり「勝ち」を相手より先に取れば、相手には「勝ち」という選択肢はありません。だから「勝ち」を得るように「努力」すればよいということになるのです。これはただのがむしゃらな「頑張り」ではありません。「勝ち」を得るというはっきりとした目的がある努力なのです。この観点から考えてみると、「先んずれば人を制す」という言葉の本当の意味がわかります。

だからどんなことにでも、取り組むときに非常に積極的な姿勢が要求されます。「偶然勝った」とか「運よく勝ちを拾った」とかといった言葉を口にする人がいます。それが謙遜である場合も尐なくないのですが、「偶然」などというものはないのです。ものごとは必然的にしか展開しません。

「原因」があって、それに相応しい結果があります。私はこれを「必然律」と呼んでいます。ふつう我々は、「必然律」に沿ってものごとが展開していく経過が見えないために、結果を「偶然」と感じているだけなのです。

辞書を引くと、必然の反意語は「偶然」と書いてありますが、「偶然」は事象に必然律を感じることができない人が口にする言葉であり、反意語ではありません。』
『いつでもこのパターンになると勝てるというのを、プロ野球などでは「勝利への方程式」などとよぶことがありますが、これはかなりの確率で必然性を持っていることを意味しています。

リリーフ・エースなどに対する絶対的な信頼感をあらわす言葉として使われることがあるようですが、そのときのその選手は、たしかに勝利につながる必然性を具現するようなプレイをしているのです。ただし所詮人のやることですから、いつかは崩れるわけですが。

このような展開になれば必ずこのような結果にたどりつくという場合、展開またはその展開がはじまるきっかけを「必然因」といい、結果を「必然果」といいます。高いところに水があるということが「必然因」であり、水路が展開で、自分が水を手に入れることが「必然果」ということになります。

・・・

何度となく同じ動作を反復する練習があります。意味を理解させないで反復練習をさせると、やっている人の中には、練習に対する反感が芽生えることもありますが、無数の繰り返し動作の中から、「これをこうすれば、必ず自分の目的は達成できる」という「必然律」が生まれ、それをきちんと習得したら、何万回と繰り返した動きは、自分が手に入れた「必然」のための肥やしになっていて、無駄になったわけではありません。

けれども、誰が見ても不完全なままの動作を、意味もなく繰り返す練習は無駄というより有害です。我々の身体は適応能が高く、間違ったものにすら適応してしまいます。つまり間違った動きが骨の髄まで身についてしまうわけですね。こういうことが幼い頃に起こると、その人の人生は悲惨です。「失敗」のための「必然因」がここで植えつけられてしまうからです。

特に幼い頃から特定のスポーツなどに取り組む場合では要注意です。最初につく指導者は、優秀な指導者でなければ困るというのはこういう理由からです。

トレーニングなどでも、完成度の高いものを行えば、成功に至る確率は高くなります。反対に完成度の低いものを行えば、失敗に終わる確率が高くなります。身体に無理をかけているのを承知でトレーニングを行えば、故障が起こるのは当たり前ですし、不自然な練習をすれば、不自然な身体になるのもまた「必然」です。特に量をこなす練習法では、結果は両極端に分かれていきます。』

『我々の身体にとって必然的な状態とはどのようなものでしょうか。それはすべての部位が「あるべき場所」に「あるべき状態」で存在する状態です。つまり最も自然な状態にあるということですね。

身体のあらゆる部位が自然な状態にあるというと、「自然体」になりますが、「自然体」で発生する感覚が崩れないように動くと、動きは自然な動きになります。言い換えれば、身体各部の関係が「必然性」を持った動きということですね。

もちろん「必然性」は正しい動きだけにあるものではありません。わずかに姿勢を変えただけで動きはまったく別物に変化していきます。

同じように椅子に腰掛けていても、すぐに立ち上がれるかどうかは、外見からはほとんどわからないようなわずかな違いで決まりますし、ヒトが「歩く」というような単純な動きであっても、わずかに姿勢が変化しただけで歩き姿が変化してしまい、動作効率で大きな違いが出てしまいます。

こういう中で長い間歪んだ姿勢をしていると、それに対する「慣れ」が、「歪んだ姿勢」を自然だと思い込ませてしまうこともあります。本人はその姿勢を不自然だとは感じません。けれども動作目的を達成しようとしたときに、時間がかかったり、体力的な消耗が激しかったりします。ときには故障することがあるかも知れません。

「舒展(じょてん)」のところでのびやかな動きを取り上げましたが、「のびやか」というのが我々にとって曖昧な概念ではないのと同様、自然に動くということも曖昧な概念ではありません。身体の感覚さえ鋭くなれば、非常に具体的な感覚です。

正しい「必然性」を持った身体では、身体の一ヶ所が動いただけで、他の部位もすべてそれに呼応して動きます。つまり「全身が同時に協力して動いている」わけで、「整体動作」とはこういう動きを言うのです。

「全身を同時に協力させて動かそう」と考えて動くことは、現実問題として不可能です。全身が必然性を高める方法とは身体運用を考えていく上でこのような状態を手に入れることは大切なことですが、トレーニングで結果を急いではいけません。早くから結果を求めると、どうしてもその場その場での結果に目を奪われることになり、「相手がこうくるから、自分はこう返す」などといった小手先のことをやってしまいがちになるからです。

相手によって自分の対応を変えていくというのは、自分の自然を崩してしまうことにつながります。これは自分の「必然」が崩れた状態ですから、自分にとって正しい「必然律」から外れてしまっています。そして時には相手の「必然律」に呑み込まれてしまい、行動によって自分が当然期待できる展開が起こらなくなります。

こうなるといつも、「歯を食いしばって」努力した結果に一喜一憂しなければならなくなるのです。かつて私もまさにこういう世界で四苦八苦していましたが、誰かと対戦するような状況で相手も自分と同じレベルなら、お互いが「必然性」を持っていないわけですから結果は読めません。

こちらが相手の自然を崩せないようなら、絶対に勝つことはできません。相手が「必然律」を支配してしまうからです。

自分が「必然律」を支配しようと思えば、自分の「必然性」を高めておかなければなりませんから、目先のことに追われていては無理です。自分にとっての自然を感じ、その自然を、いついかなる状況でも崩さないように動かなければなりません。それが無心で動くということです。

誰かに強制されて行う練習では、まず「強制された」ときに、自分としての自然さが崩れています。細かく練習計画などを作って、その通りにやろうとすると、自分の作った計画に縛られてしまうことになります。「計画通りにしなければならない」という義務感が、すでに自分にストレスになっています。

その代わりに、自分で「必要」とか「やろう」と感じたことはすぐにやらなければなりません。そのときに「必然」になっているから、「やろう」と感じたのです。誰からの指示でもない、自分が「必要だ」と感じたから思ったのです。それをしなければ自分の中の「必然律」が崩れていきます。

「やろうと思ったときが実行するとき」と言いますが、まさにその通りです。一流と言われる選手には、思ったことを思ったときにやる選手が多くいるようですが、自分にとって「必然」を実行できるタイプの選手が、一流になる確率が高いということです。

「他人と同じようにやるべきだ」と本人が感じたのならそれが「必然」でしょうが、ある程度のレベルに達すると、他入と同じことをしない人が多くなってくるでしょう。迷わずに自分にとっての「必然」を行うことができる人が、自分の「必然律」を完成していく人といえるのではないでしょうか。

人間は最も人間らしいときに、人間として最高の「能力」を発揮することができ、あなたは一番あなたらしいときに、最高のあなたの「能力」を発揮できるということです。』

『・・・ 「客観性」は、誰に教えても同じ結果を出すということを要求されますし、「再現性」は、選手が変わっても、何度やっても同じ「結果」を出さなければならなくなります。学校のスポーツチームなどの場合ならば、毎年選手の顔ぶれが変わりますが、毎年優れた選手を育成しなければならないということです。

「普遍性」も同様です。自分が所属する環境が変わっても、「いつでも、どこでも」、選手に同じ技術に習熟させ、同じようにレベルの高い「結果」を出さなければなりません。当然、競技する環境が変わっても、自分が作ったチームは、自分のところの技術を、いつでも使いこなすことができなければなりません。

学生のスポーツではよく見かけることですが、一年ぐらい活躍しても次の年は活躍できなかったのなら、それは指導者の技術ではなく、たまたま優れた選手がいたというだけのことです。そのチームで使われた技術は「選手としての技術」であり、「指導者としての技術」が優れていたから出た結果とは言えません。

優れた指導者は、多くの選手をのばす技術を持っています。多くの選手ですから、それぞれに適した技術は異なるはずです。けれども誰にでも優れた「結果」を出せる技術を習得させているわけですから、この指導者はさまざまな状況に適応した「指導していく上での必然」を持っているということになります。

たくさんいる選手のうち、一人か二人の選手にしかできないのなら、偶然その指導者が持っていた技術に適した者だけがのびたということになります。

どの選手に対しても、自分の知っている技術に強引に引っ張り込んで、まずまずの「結果」を出すことができる指導者もいますが、これは「型」にはめているだけで、次の新しい指導者に変わったとき、十分に適応できないことも多いようです。こういうところで伸び悩んでいる選手でも、指導者が変わった瞬間に爆発的にのびるようなケースはよく見かけます。

ものごとに「成功」するには、さまざまな条件をすべて満たしていかなければなりません。成功のためのすべての条件を満たしてしまえば、「必然因」はすべてそろっていますから、必ず成功します。「必然果」だからです。

反対にすべての条件を満たすことができない指導者がいたとすると、この人の指導だけでは成功することは絶対にありません。指導者として成功にいたる条件に欠けている部分が尐ないときには、その条件を選手自身が満たしてくれれば、まずまずの実績を残すことができます。

何かの目的に到達しようとするとき、指導者と選手は「チーム」として助けあいながら行動しますが、助けあうのは自然なので、ふつうはこのような助けあい、補いあいで目的に到達することができるのです。

けれども指導する側があまりにたくさんの条件を満たしていなくて、選手もそれをカバーしきれなければ、その指導者の指導ではいい選手に育ちません。指導者としての技術は、「優れた選手にするための条件を整える」ことなのです。そして個性豊かな多くの人間に対して、何が必要なのかを正確に見抜き、それを満たしていくことができる指導者を「名指導者」ということができるのではないかと思います。

反対に、指導者が必要な条件を満たすことなく、選手が持っているいわゆる「素質」だけにたよるだけならば、もはや「指導」とよぶに値しません。以前、仲良しの指導者から「おまえ、今まで何人失敗した?」なんてたずねられたことがありました。指導者としての「力量」が向上していくと、「今の自分だったら十分いい選手にできたのに……」という選手が過去に大勢いたことに気づきます。

そして心の中で「すまない」と思うことがあるのですが、よく考えてみれば、そういう失敗体験が肥やしになって今の自分がいるわけですから、これもまたある種の「必然」なのかも知れません。

素晴らしい身体運用も、身体とその周囲の「必然」の中で生まれますが、優れた選手も、選手と周囲の環境の「必然」の中で生まれるものです。だから名指導者は毎年のように素晴らしい選手を育成します。

これを指導者の技術だと考えた方がいいですが、そのためにはすぐれた「結果」に到達できる技術を、客観的に捉えていなければなりません。つまり選手としての技術が「主観的技術」であるのに対し、指導者として選手に指導する技術は、「客観的」でなければならないということです。』

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