人間機械論批判|ニュースレターNO.196

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先般、知人から日経サイエンスの記事が送られてきました。それは“「失われた身体」を取り戻す”というタイトルで、認知運動療法についての対談でした。認知運動療法という言葉は、聴いたことのあるようなないような言葉で、内容を読むと非常に興味を持ちました。簡単に言えば、からだを動かすのは、筋肉ではなくて、脳であるということです。

基本的にはわかっていることなのですが、実際には、脳のことを忘れ、手、腕、足の筋肉に意識がいってしまっています。四肢が動かせなくなると、動かない・動きにくい関節を動かそうとします。例えば、肘が曲がりにくければ、他動的に・強制的に肘を曲げようとします。それが一般的なリハであり、運動療法なのです。しかし、肘を動かすのは上腕二頭筋でもなければ三頭筋でもなく、脳の命令が必要だということです。

ということは、頭の中で、脳を活性化すれば実際に動かさなくても動くようになったり、大きな力が出せたり、スムーズに動かしたりすることができるようになるのではないかということです。順番からいえば、そうなるはずです。脳からの指令がなければ、動くはずはないのです。こんなことを我々は忘れてしまっていたようで、外面的な動きにこだわっていたように思います。

そんな興味を抱いたので、早々に宮本省三著「脳のなかの身体(講談社2008)」を購入し、読んでみました。やはり興味深い内容でした。リハビリテーションだけでなく、トレーニングや動作の指導に応用できることがわかりました。正に、「脳を考える」時代になってきたのでしょうか。

内面の脳に目を向けることによって、これまで何らかの壁にぶち当たっていたものが突破できる可能性が開けてきたように思います。もう一度、我々の体を動かすのは、「筋肉」ではなく、「脳」であるということを再認識しましょう。「頭は使いよう」といわれるように、「脳をどのように使うか」ということでしょう。ますます「脳」に興味がわいてきました。

今回は、上述の著書の中から、現状のリハビリテーションに提言しているところを紹介したいと思います。

『二十一世紀を生きるセラピストは、現在のリハビリテーション治療(理学療法や作業療法における運動療法)では、脳機能の回復や運動麻痺の回復が十分に達成できないことを認めるべきである。その治療効果は残存部位の機能代償によるものがほとんどであり、日常生活動作能力の向上や社会復帰がはかれる症例はあるものの、脳損傷後の高次脳機能障害(失行、失認、失語)や運動麻痺の回復という点では無力に等しいのが現実である。

また、中枢神経疾患のみならず、整形外科的疾患におけるリハビリテーション治療の現実も同様である。運動器損傷(骨・関節・靱帯・筋などの損傷)への治療も伝統的な運動療法に終始している。

その臨床は停滞しており、スポーツ選手への治療で注目を浴びたり、新しい整形外科的手術の導入と効果が語られたりすることによって、一見、進歩したように見えるものの、実は理論も治療手技も何十年も変わっていない。そこには、運動器損傷後の回復にも脳の学習メカニズムが関与するという考え方がまったく存在していない。

こうした現実を乗り越えてゆくためには、セラピストが人間の身体をどのように捉えて治療しているのか、その思考の立脚点を厳しく問う必要がある。

ここでは、運動療法の背後に潜む身体思想を厳しく批判する。それはリハビリテーション治療の歴史に強い痛みを与えるものかもしれない。だが、この痛みを避けて運動療法が進歩することはない。患者は運動麻痺の回復を期待してリハビリテーション訓練室にやってくる。毎日、運動療法に励む。しかし、その努力は運動麻痺の回復という点では報われないことが圧倒的に多い。この厳しい現実に対して停滞は許されないはずだ。

すべての科学がそうであるように、運動療法の進歩もまた問題提起から始まる。問題提起のあり方が、臨床の「質」を決めてゆくのである。人間機械論に支配された伝統的な運動療法は早急に刷新すべきである。

そのための命題(テーゼ)は、「身体を死んだ肉塊におとしめてはならない」、「身体をもの言わぬ物体として扱ってはならない」、「身体を自動的に動く解剖標本として理解してはならない」、「身体を刺激に反応する物体と解釈してはならない」の四つである。』

『一昔前、運動麻痺に対してマッサージが施されていたのは歴史的事実である。だから、リハビリテーション治療といえば「マッサージ」のことだと解釈する人々が大勢いた。今でも世間の人々の一部はそのように解釈している。その世間の印象から脱却するために、どれだけセラピストが医学的な知見を取り入れ、運動麻痺を治療しようと努力を続けてきたかを、ここで詳しく述べることはできない。しかし、リハビリテーション医学の進歩により、その運動麻痺に対する治療が、マッサージから運動療法へ変わった。

これによって、脳卒中片麻痺患者の手足に痙性麻痺があり、異常な筋緊張によって筋が固くなっている場合、マッサージによってその固くなった筋を柔らかくすれば痙性麻痺がりようが回復するのではないかと仮定する素朴な思考は凌駕されたのである。
これは健常な身体の疲れを癒すマッサージを否定しているのではない。動かない麻痺肢をいくらマッサージしても、手足が動きだすわけではないことを指摘しているのである「身体を死んだ肉塊におとしめてはならない」という命題はこれを指している。』

『「そうした麻痺肢へのマッサージにとってかわったのが、関節可動域訓練や筋の伸張訓練(ストレッチ)である。

痙性麻痺によって関節拘縮(関節が固まって動かなくなること)や筋短縮(筋肉が短くなって関節可動範囲が制限されること)が生じる。これを予防、改善するためのセラピストによる他動的な関節可動域訓練や筋の伸張訓練が正当化された。今でも大多数の脳卒中片麻痺患者はリハビリテーション訓練室でこの治療を受けている。

だが、いくら関節を動かしても、筋をストレッチしても、運動麻痺が回復するわけではない。特に脳卒中片麻痺に出現する筋の痙性は神経生理学的には脊髄レベルにおける伸張反射の充進状態であり、痙性は筋伸張の速度に比例して充進する。

他動的な関節可動域訓練は拘縮予防として絶対的に正当化されているが、この筋への物理的な伸張刺激によって逆に痙性を高めている可能性がきわめて高い。だとすれば、セラピストは、一方で関節拘縮を予防し、一方で関節拘縮の原因となる異常な筋緊張を生み出していることになる。

動かない麻痺肢にいくら関節可動域訓練や筋の伸張訓練をしても、手足が動きだすわけではないし、伸張反射が制御できるようになるわけでもない。だからこそ「身体をもの言わぬ物体として扱ってはならない」のである。』

『運動療法には筋力トレーニングと呼ばれるものがある。脳卒中片麻痺は筋緊張の質的な異常は生じるが、筋力低下という量的な異常が生じるわけではない。しかし、それにもかかわらず、筋力トレーニングを脳卒中片麻痺に適応するセラピストがいる。

その代表例として、近年、厚生労働省(市町村)やリハビリテーション関連施設が信じられないほどの巨費を投じ、介護保険の対象者である高齢者(老人)や脳卒中片麻痺患者に対して、スポーツ・ジムのような機械器具を用いたパワー・リハビリテーションを導入している現状がある。これは何十年にもわたって科学性を追求してきた我が国のリハビリテーション医学の後退である。

高齢者の日常生活動作能力の低下を予防するという目的が間違っているのではない。その対策として筋力トレーニングを安易に推奨する、人間機械論的な科学観が間違っているのだ。日常生活動作は行為であり、行為する能力は筋力トレーニングでは生まれない。

単に筋力を強めても野球やサッカーは上手くならないように、正しい技能を修得したうえで筋力を鍛えるのでなければ意味がない。指導の順序が逆であることは、ピアノやギターを弾くという手指の行為が筋力を鍛えても生まれないことを考えればすぐにわかるはずだ。つまり、高齢者に転倒予防と称して下肢に錘を付け、椅子に座って大腿四頭筋の筋力を強化しても、立位バランスや歩行能力が向上するわけではないのである(図25)。

特に、脳卒中片麻痺患者の麻痺肢の関節運動に対して物理的な抵抗を加える筋力トレーニングは、過度な努力を要求するため痙性麻痺はさらに増悪する。この増悪は健側上下肢への筋力トレーニングによっても放散反応として必ず発生する。

その事実を認めるなら、脳卒中片麻痺の動かない麻痺肢が少し動くからといって筋力トレーニングをすべきではないし、それで運動麻痺が回復するわけではない。そのことを指摘しているのが、「身体を自動的に動く解剖標本として理解してはならない」である。』

『脳卒中片麻痺患者は、運動麻痺があっても身体を動かして移動しなければならない。そのために日常生活動作の自立に向けての運動療法が非常に重要視されている。

「起居移動動作」と呼ばれる寝返り、起き上がり、座位保持、座位バランス、四つ這い、膝立ち、椅子からの立ち上がり、立位保持、立位バランス、歩行(平行棒内歩行、一本杖歩行、階段昇降、屋外歩行)や、「身のまわり動作」と呼ばれる衣服の脱着(着替え)、食事動作(手の使用)、整容動作(洗顔や歯磨き)、トイレ動作(排尿・排便)、入浴などの練習である。

これらはその練習の必要性が患者自身にも家族にもわかるため、そして日常生活動作の自立度や介護度が社会復帰のバロメーター(指標)となるため、リハビリテーション治療で最優先されている。だが、ここには思考の大きな落とし穴がある。つまり、こうした日常生活動作訓練は運動麻痺に対する治療ではなく、「利き手交換の練習」に代表されるように、主に残された健側の手足を使っての練習なのである。

上肢の運動麻痺があれば手の道具使用を練習することはできないし、下肢の重度な運動麻痺があれば立位や歩行を練習できない。こうした日常生活動作訓練によって、麻痺した手の回復や正常歩行が獲得されるわけではないのである。

たしかに、そこには日常生活動作を自立させようとする目的がある。しかし、それは運動麻痺の回復を目的とはしていない。運動麻痺の回復には限界があり、それをあきらめたうえで、家庭復帰や社会復帰をさせようとするリハビリテーション治療なのである。

したがって、これは早期の家庭復帰や社会復帰を目的とした代償的なアプローチであり、こうした日常生活動作訓練によって麻痺肢の手足が動きだすわけではない。

また、手足の随意運動を誘発しようとする各種のファシリテーション・テクニックは、セラピストの外部刺激による感覚入力によって反射的・反応的な筋収縮を誘発しようとしているにすぎない。

こうした徒手操作を介した感覚刺激によって姿勢制御反応を向上させようとするファシリテーション・テクニックによって随意運動が回復するわけでもない。さらに、痙性筋に対して困難な動作を強要したり過度な体重負荷を加えたりすると、筋緊張がさらに充進し、痙性麻痺が増悪してしまう。反射を制御する脳の認知過程を無視し、感覚刺激-脊髄-運動反応の神経回路をいくら活性化させても、運動学習は生じない。つまり、「身体を刺激に反応する物体と解釈してはならない」のである。』

『理学療法や作業療法におけるこうした伝統的な運動療法(マッサージ、関節可動域訓練、筋の伸張訓練、筋力トンーニング、日常生活動作訓練、ファシリテーション・テクニックなど)を、人間機械論的なリハビリテーション治療だと批判することに多くのリハビリテーション医やセラピストは強く反論するだろう。

それらは歴史的な産物であり、学校教育で教えられ、国家試験にも出題され、学会でも認められ、毎日の臨床で繰り広げられている治療であるから、不謹慎な暴言を取り消せと言われるかもしれない。しかし、自らを育ててくれた学問と決別するかのように、その伝統的な運動療法にある種の愛情と惜別の念を感じつつ、勇気をもって断言すれば、そこに決定的かつ本質的な問題が秘められている。

現状の運動療法では運動麻痺を回復させることはできないという現実に直面すると、多くのリハビリテーション医やセラピストは、運動麻痺の回復は脳損傷が重度で限界があると判断し、健常な身体部位の残存能力を使って日常生活動作を指導することに満足してしまい、自らの人間機械論に準拠した伝統的な運動療法の限界を乗り越えようとはしない。

だから、彼らがいくらリハビリテーション思想を強調し、リハビリテーション治療の科学性を主張し、在宅リハビリテーションを展開し、さらに介護保険など社会福祉制度との連携を提言しようとも、患者の身体を人間機械論的に解釈しているかぎり、そこから生み出されるリハビリテーション治療を信頼するわけにはいかない。

現在のリハビリテーション治療は身体を物理的(生体力学的)に捉えており、その治療は脳のなかの身体の回復を目指していないという致命的な欠陥がある。あらゆる回復は脳の学習であり、脳に働きかけない治療は運動麻痺を回復させることはできない。また、代償による限界を超えた、人間の行為する能力を再獲得させることはできない。

人間機械論にもとづく運動療法とは、身体を物体とみなし、患者の脳に思考を要求しない、セラピストにおまかせの治療のことだ。人間機械論は解剖学、運動学、神経学といった基礎医学的な知識によって強固に正当化され、理学療法や作業療法の世界を構築し、豊かなリハビリテーション医療を築いてきたかのように見えるが、それは幻想であり、それに満足していたのでは患者の運動機能回復はなく、リハビリテーションの未来もない。

人間機械論から脱却し、伝統的な運動療法と決別すべきである。そして、ペルフェッティが提言しているように「運動機能回復を病的状態からの学習過程とみなし、学習過程が脳の認知過程の発達にもとついているのであれば、運動療法もまた認知過程の発達にもとついていなければならない」と考えるべきである。』

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