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記憶とは何か|ニュースレターNO.241

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4月のニュースレターで紹介しました福岡伸一著:動的平衡(木楽舎2009)は読まれましたでしょうか。読まれた方には重複しますが、面白く興味深いところを紹介したいと思います。それは「記憶」について書かれたところです。

脳学者からみた「記憶」の話と、分子生物学者からみた「記憶」の違いが面白いです。難しい話を平易に解説しているところを見習わなければいけませんね。他にも面白いテーマについて書かれていますので、まだ読まれていない方は是非お読みください。

『生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうることは、この記憶物質をめぐる論争が行われていた当時に遡ること二〇年ほど前、すでにルドルフ・シエーンハイマーという科学者によって明らかにされていた。

シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬潤にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのである。すこし冷静に考えれば、常に代謝回転し続ける物質を記憶媒体にすることなどできるはずもない。

だから、音楽やデータを記録する媒体として、我々は常により安定した物質を求め続けてきた。レコード、磁気テープ、CD、MD、HD……。

ほんの数日で分解されてしまう生体分子を素子として、その上にメモリーを書き込むことなど原理的に不可能だ。記憶物質は見つかっていないのではなく、存在しようがないのである。ヒトの身体を構成している分予は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。

それは脳細胞といえども例外ではない。脳細胞は一度完成すると増殖したり再生することはほとんどないが、それは一度建設された建造物がずっとそこに立ち続けているようなものではない。脳細胞を構成している内部の分子群は高速度で変転している。その建造物はいたる部分でリフォームが繰り返され、建設当時に使われていた建材など何一つ残ってはいないのである。

つまり、ビデオテープの存在を担保するような分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序をもつ分子の「淀み」である。そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。

私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。

大半の方がそうだと思うが、私たちは五年前や一〇年前の一年の過ぎ方がどうだったかなどと思い出すことすらできない。過去は恐ろしいほどにボンヤリしたものでしかないのである。

仮に「五年前にはこんなことがあり、一〇年前にはあんなことがあったなあ」と思い出すことはできても、それは日記なり写真なり記念品があるから、それを手がかりに過去の願番をかろうじて跡づけられるのであって、感覚としては、一〇年前のことが五年前のことよりも、より遠い昔のことだという実感を持つことはできない。逆に五年前のことが一〇年前よりも新鮮な記憶としてあるという実感も実はない。

人は年齢を重ねるごとに時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、実は過去をおぼろげながらにしか想起できはしないのだ。

ここに記憶というものの正体がある。人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。

ビビッドなものがあるとすれば、それは過去がビビッドなのではなく、たった今、ビビッドな感覚の中にいるということである。私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである。

ではいったい記憶とは何だろうか。細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。それはこれまで見てきたとおりだ。ならば記憶はどこにあるのか。それはおそらく細胞の外側にある、正確にいえば、細胞と細胞とのあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連繋を作って互いに結合している。結合して神経回路を作っている。

神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。

神経回路は、いわばクリスマスに飾りつけされたイルミネーションのようなものだ。電気が通ると順番に明かりがともり、それはある星座を形作る。オリオン座、いて座、こぐま座。

あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれない。あるいはメロディかもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。

ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られた時と同じ尾座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。

たとえ、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替っても、細胞と細胞とが形作る回路の形は保持される。いや、その形すら長い年月のうちには少しずつ変容するかもしれない。しかし、おおよその星座のかたちはそのまま残る。』

『さて、記憶分子は確かに実在していない。しかし、分子の代謝回転と記憶のあいだには奇妙な関係があるように思える。それは時間経過の感覚のことである。一日が瞬く間に終わる。あるいは一年があっという問に過ぎる。子供の頃はもっともっと一年が長く、充実したものだったのに。

なぜ大人になると時間が早く過ぎるようになるのか。誰もが感じるこの疑問は、ずっと古くからあるはずなのに、なかなか納得できる説明が見当たらない。この難問について生物学的に考察してみよう。

三歳の子供にとって、一年はこれまで生きてきた全人生の三分の一であるのに対し、三〇歳の大人にとっては三〇分の一だから。こんな言い方がある。

よく聞く説明だが、はっきり言って、これは答えになっていない。確かに自分の年齢を分母にして一年を考えると、歳をとるにつれて一年の重みは相対的に小さくなる。しかし、だからといって一年という時間が短く感じられる理由にはならない。

ここで重要なポイントは、私たちが時間の経過を「感じる」、そのメカニズムである。物理的な時間としての一年は、三歳のときも三〇歳のときも同じ長さである。にもかかわらず、私たちは三〇歳の時の一年のほうをずっと短いと感じる。そもそも私たちは時間の経過をどのように把握するのだろうか。

自分がこれまで生きてきた時間をモノサシにして(あるいは分母にして)時間を計っているのだろうか。もしそうなら先の説明も一理あることになる。

でも、これは違う。私たちは自分の生きてきた時間、つまり年齢を、実感として把握してはいない。大多数の人は自分が「まだまだ若い」と思っているはずだし、一〇年前の出来事と二〇年前の出来事の「古さ」を区別することもできない。もし記憶を喪失して、ある朝、目覚めたとしよう。

あなたは自分の年齢を「実感」できるだろうか。自分が何歳なのかは、年号とか日付とか手帳といった外部の記憶をもとに初めて認識できることであって、時間に対する内発的な感覚は極めてあやふやなものでしかない。したがって、これが分母となって時間感覚が発生しているとは考えがたい。

一年があっという間に過ぎる。時間経過の謎は、実は私たちの内部にある。この時間感覚のあいまいさと関連している、というのが私の仮説である。それはこういうことである。』

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